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Think back to豊中まつり(Episode1) [まつり]

今年、22年間関わり続け「It's my life.」と言っても過言ではなかった「豊中まつり」の実行委員長を退任した。とは言え、まだまだ引き継ぎ等があるので会議などには参加している訳で、もう少し先にならないと実感はわかないのかと思う。
それにしても、長かった。
そもそも、勤めていた会社をやめ、この豊中の地で自らが起業し生きていこうと決意したのが24歳の時。
そのころは何にも無く、しかも結婚もしていた。
今考えれば、なんと無謀な・・・
文句も言わず、ついてきてくれた妻には感謝しか無い。
父親の仕事の手伝いをしながら、試行錯誤しやはり、福祉関連の建築士になろうと心に決めたのが25歳。
我が人生の中でひたすら勉強を頑張ったといえるのは、ここからの5年間。
30歳で念願の一級建築士を取得し「よし、これからや!」
・・・・・・・・・と意気込むも
その頃はあまり注目もされていなかった福祉関連の建築。
そんな分野の仕事なんて、ほぼ無かった。

しかも、この豊中は縁もゆかりもないまち。

ならば、縁とゆかりをまず作ろうと思い立って
青年会議所に入った。
がむしゃらに活動し、食うための仕事をし
青年会議所の先輩方にいっぱい助けられ
縁とゆかりが徐々にできあがってきた頃

「豊中まつり」と出会う訳である。

最初は、不信感しかなかった。
青年会議所のメンバーとして見直し検討会議に参加したとき
「何や、結局は行政の人達がやるんや。」
「よくある市民主体を演じるために会議には様々な団体を巻き込んでおくというやり方か。」と
しかも、プロが入っておりほとんど形は出来ている。

「何を言っても無駄やん。」

であれば、「2回目からは、企画段階から参画させて下さい。」とお願いし、今回我々に何を求めているかを教えてもらい、それを全うした。
第一回の豊中まつりでの事である。
確か、駐輪場の整理をしわらび餅やかち割氷を売っていたと記憶している。

しかし、その時、参加されていた行政メンバーやプロデューサーが何か他と違うといった感覚があったのも事実であり、その興味が、私の以降の豊中まつりへの関わり方に大きく影響することになるとは、その時は思わなかった。

第一回が成功裏に終わり(多分・・・)、すぐさま第二回に向けての会議がはじまる。
約束通り、最初から関わらせて頂くことになり、青年会議所でも豊中まつりを担当する責任者となった。
会議に参加して間もなく、はっきりと他の行政の参加する事業と異なることがわかった。
普通は、実務担当課が主となって他の課はお手伝い程度なのだが、実務担当課では無く、いわば関係の無い課の人達が主となって進めている。しかも、最初は仕方ないが市民主体のものにしなければ、意味が無いといった方向性もブレが無い。
しかも、熱い・・・・・・・・

言わば、市民側の代表的な役割で参加している私にとって、中途半端に関わることは出来ないなと感じたわけである。
しかし、青年会議所としての参加であったために、任期は一年。
そこで、早くも腹をくくることになる。
「市民として参加しよう。」と
しかも、異例なことではあるが、そこから40歳で青年会議所を卒業するまでの間、ずっと「豊中まつり」担当となったのだ。

二回目をむかえるまでの一年間は、あっという間に過ぎた。
いろいろお手伝いをしながら、青年会議所では、いかに市民主体のものになるのかを担当メンバーと共に議論をかさねた。
しかし、この頃はまだ、市民と行政が一体となって進めているといった実感が無く、会議終わりでもそれぞれが別の場所で親交を深めていた。
二回目で忘れられない思い出は、ローズ球場でステージを組んでいた関係で、今ではまつり名物にもなっているステージの最後に繰り広げられるカチャーシーの時、マウンドには入れてはいけないとその回りを囲んで守っていたとき、思いっきり誰かに「邪魔や!!」との声のもと殴られたことを今でも鮮明に覚えている。

そして、第三回に向けてまたスタートするのである。

この頃から、会議の中でも積極的に発言するようになり、当時の青年会議所の理事長が豊中まつりの実行委員長を受けることになる。とはいっても、挨拶担当のようなもので、市民側の実務は私がほぼやっていたような・・・
笑い話のようであるが、当の実行委員長がまつり開催日には来なかったのである。(笑)
私の実行委員長生活の実質的開始の時であった。
そして、大きな動きがあった。
市の予算が半分になったのである。
プロとして関わってきたプロデューサーにも支払うお金が無い・・・・
しかし、全体を調整、監修するには必要な人材・・・・・・
そこで、ダメ元で
「我々にボランティアやから、これからは豊中市民の一人としてボランティアでやってよ。」と
すると、ほぼ二つ返事でOKであった。

この出来事が、行政やプロ側と市民側を一体にした。
以降は、どっちみち会議後に飲みに行くのなら、一緒に行こうとの話となり、現在でも続いている会議後の懇親会も始まった。これが実に効果があり、より深く話し合え、まつりに対しての様々な生産性が上がり始める、それと同時に行政や市民の枠を超えての繋がりが作られていくことになるのである。
そして、皆が口にした。
「市の予算が半分になったからこそ、より安心、安全でパワーアップしたまつりを作ろう!!」と

まさにピンチはチャンス
官民一体となった豊中まつり実行委員会が出来上がった。
そして、次の年から私自身が、「冠の委員長はいらん、芳村、プレイングマネージャーになれ。」
とのことで、正式に実行委員長となったのである。








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