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「恩」って?人生の最終章をむかえるにあたり・・・ [日常]

「恩」に関して、少し考えて見た。
そもそも「恩」とは感謝の念であると考えているので、こちら側から「恩」を感じろなんてことを強要するものでは無いことはよくよく理解しているつもりである。
それこそ「恩」きせがましい事となってしまう。
感謝の念であると考えれば、個々に指標が違うのであるから当然のことでもある。
こちらがいかに一生懸命、力になったところで相手側はそれほどでも無かったり、場合によってはうっとうしく感じたりすることもある。

また、「恩」というものは一方的なものであるとは考えていない。
誰かの力になれると言うことは、自らにとっても有意義なことであり、その経験をさせていただいたことに私は「恩」を感じる。

「恩」の反対語を調べてみると
「讐」対抗して互いに敵となることとある。

そうだろうか?

私は対抗して敵となっても「恩」の概念があれば、良いと考えている。
ただし、
キッチリと何故そうなるのかを伝えること。
自分なりの「正義」がどうであるかを伝えること。

「恩」があるからと言って、対抗することすら辞めるのならば、それは「恩」ある相手に対しての侮辱でもあるのではと思ってしまう。結果的に「恩を仇で返す」こととなったとしてもである。

しかし、そもそも「恩」を感じない人間はいかがなものか
感謝してくれとは思わないが、感謝する気持ちが無いということである。

こういう輩は
自分の為にだけ人を利用する。
自分の責任を理解しようとしない。
自分の都合が悪いことから逃げる。

そして
「裏切り」を繰り返す。

私の人生、本当に沢山の方々に助けてもらって生きてきた。

「恩」を感じた人に迷惑をかけたことがある。
「恩」を受けた人の力になれなかったこともある。
「恩」を受けた人に対抗することになったこともある。

しかし、「恩」を忘れてはいない。

「裏切り」は心を傷つけ、憎しみを生むから。

この年になってきて「恩」を受けた人の多くが亡くなられている。
「恩返し」が出来ていない。
ネットで素敵な言葉を見つけた

「恩送り」

そうだよな、私も「恩」を返してもらおうなんて考えていないし。
受けた「恩」を誰か他の人に送ること・・・・・
人生の最終章、そんなことを考えて生きてみるとします。


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「≒私達」の意見を形成することが大事 [日常]

コミュニティビジネスにおいて、私はスピード感を大切にしてきた。
今まで、多くのNPOの活動に参画してきたのだが大体がスピード感の無い団体と言うものは、事業の進展が見られること無く、消滅していくことが多い。

当然、法人である以上は定款や、それに定められている決議機関を経ていくことも必要である。
しかし、それはそもそも何のためにあるのかをよ〜く考えてみて欲しいと思うのである。

それは、組織の人間が「私」であり「私達」であることを認識するためのものである。

一つの事業で法人の生死をかけるような事柄
非常に賛否が分かれる事柄
等々を「私」の意見を「私達」の意見として認識するために議決をするのである。

ラグビーで一人がボールを持って相手に突っ込んだ時
誰しもが、何も考えずにフォローやオーバーに入る。
ここで躊躇は無い。
そして、後ろに控えしものが、その後のゲームの組み立てを考え繋ぐ。
これによって、チーム全体のスピード感が増し、流れが作れる。
これぞ、「私達」の考えが事前に浸透しているからである。

これと一緒であると思うのである。

誰かが、よかれと思って突き進もうとしている時
全体判断として、意見が分かれている場合は別として「私≒私達」の場合は、フォローやオーバーに無条件で入り、よりスピード感をだす。
そして、その動きを担保するために、ルールにあうようにフォローする。

こうすることで、コミュニティビジネスにおいて一番大事なモチベーションを維持し向上することが出来るのである。
私自身、コミュニティビジネスの一つであると考えている「豊中まつり」においても、ここが一番大事なところだと心して関わってきた。

しかし、ここがわかっちゃいないケースが多い。
何かにつけて、すぐに会議。
法人だからみんなの意見が。
定款上では・・・・・。

そうじゃなくて、すぐにオーバーやフォローに入れるように
事前に皆の意思疎通をはかり、大枠で「≒私達」の意見を形成することが大事なわけである。

すれば、スピード感でる!!

そう考えると
我が「NPO法人ゆにばっぷ」は凄いと自画自賛してしまうのである。
スピード感が、半端無い。
いや〜、本当に半端無い。

まあ、失敗だと判断したときの「撤退」のスピードも半端無いですが。(笑)


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宮城県訪問で思う。 [日常]

先週末から宮城県へと行っていた。
名取市の閖上地区、祈りの丘にあがり閖上地区を見る。
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確実に数ヶ月前とは表情は変わっている。

積み上げられた瓦礫はほぼ無くなっていた。

しかし、地面にはほぼ一面に草の化粧がほどこされている。
そこに、人の気配は無い・・・・・・
と同時に、復興への道の険しさも感じてやまなかった。

一つの町が、一瞬のもとに津波に飲み込まれ
そして、消滅した。
改めて思う
この地区の復興とは何なのか?

土地の3メートルかさ上げや避難ビルによる津波の多重防御で現地再建を目指す「閖上地区被災市街地復興土地区画整理事業」
しかし、漁港付近で高さ8・5メートルという津波を体験した住民も多くいる。

「現地再建によって閖上のまちを残す。」
市側が、現地再建にこだわる理由を閖上のまちを残すためと説明されているという。
誰だって、住み慣れたまちに戻りたい。
でも、それ以上の恐怖を体験し悲しみも味わった。

その不安は・・・・・・

こればっかしは、本当に難しい問題であろう。

閖上のコミュニティーを解体することなく復興を果たすには子供のいる家庭が残る必要がある。
しかし、子供を自らの力で守りきれない体験をした親にとって、現地再建には勇気がいる。
かといって、高齢者ばかりが残ったのではいずれ地域は崩壊する。

そんな中、「閖上さいかい市場」では地区の商店主のみなさんが復興に向けてがんばっている。
しかし、区画整理事業のために、9月で閖上地区には入れなくなるとも言う。
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私のような、よそ者がとやかく言える問題では無い。
しかし、忘れずに意識していこうと強く思う。

そう、同じ日本人として。

一方で、仙台市の市街地は、復興景気に沸いている。
夜の2時をまわっても、国分町では大阪のミナミよりも人通りがある。
どの店も満杯・・・・・・・

一年半前に我々はオールジャパンを感じた。


今、どうだ?

と自分自身に再度、問いかけた三日間であった。



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何てこと無い話ですが、懐かしくって。 [日常]

唐突ですが、実は、私は出不精なのです。

どちらかと言えば、
アウトドアよりもインドア
ビアガーデンよりもクーラーの聞いた部屋で

休みの日は、家で本でも読んでるほうが・・・・
高級ホテルより家のベッドが・・・・
タイプなのです。

しかし、今年もまた出張が非常に多く
月の半分位は日帰りも入れて他の「まち」を訪れております。
出張の度に、「早く家にかえりて〜。」と強く、思うのですが

それ以上に好奇心旺盛な私としては、初めて訪れる「まち」には、非常に興味を覚えるのです。
仕事の前に一駅前で降りて、歩いて見る。
仕事終わりにホテルの周りを散策する。 等々

そんな中で、先日杉並区の会社からの依頼で講演をしに行ってきた時のことなのですが
前後の日程の関係で一日前に東京に入った関係で時間が多少多めにあったもので
いろいろな所を歩いて回っていたのです。

デジャブと言うのでしょうか?

確実にここは、
見たことが有る。
いや、来たことが有る。

と感じる場所が有ったのですが、どうしてもどうしても思い出せなく
心のどこかに引っかかっていた場所

ついに、ひょんなことから判明したのです。
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同年代の人には分かってもらえるかもしれませんが。
「俺たちの旅」カースケ(中村雅俊)・オメダ(田中 健)がグズロク(秋野太作)が共同で住んでいた「いろは食堂」の上のアポートロケ地。
特に、駆け上がり、駆け下りていた階段は当時のそのままでありました。

このドラマ、我々世代では、バイブル的な青春ドラマ。
多くの人が、

“その日、その日を楽しく生きる!”がモットーで自由奔放に生きるカースケ。
カースケの生き方を否定しながらも憧れる少し小心者な3人の中で一番生真面目な青年であるが、周りに気を使いすぎるあまり失敗が多いオメダ。
何をやっても“グズ”だが、3人のなかでは一番常識的な考えを持ち合わせている一面もあるグズロク。

それぞれに、自分を重ね合わせて
何か、自分の生き方を模索していた。

結局、カースケ的な生き方は出来ずに、世の中には不合理や不条理があり。
それを、許容しつつ生きることが大人になることである。
てなことを、感じ多くの人が社会へと巣だっていった。

私も多分にその一人である。

ここ数年、本当に「なんでや!」
と叫ばざるを得ないことが世の中に多すぎる。

何か、もっとストレートに照れること無く
「青春してるぜ!」的なベタベタのものが欲しいなと、通説に思う今日この頃です。

話はそれましたが、ようするに。
思い出せなかったことが分かった、うれしさ。
「俺たちの旅」ってドラマは最高でした。
これを、お伝えしたかっただけです。(←必要無い。。ぺこり(笑))

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立山・黒部に行って思う。「浮雲」がいいと。 [日常]

いや〜今年の盆休み、ゆっくりさせていただいた。

9日間の休み、最初は結局は執筆や事務作業に追われるかな?と思っていたのだが、
思い切って、「仕事を全て忘れる。」ことにした。

その中で妻と二人で黒部・立山のアルペンルートに行ってみようと言うことになり、思い立ったが吉日で人生初めてのバスツアーなるもので出かけてきた。
天気予報は雨マークであったのだが、
そこは天下の晴れ男で旅行期間中に傘をさすことは一度たりとも無かった。

何気なく出かけた小旅行であったのだが、これが実によかった。

最初に宇奈月温泉までバスで直行し、そこから黒部峡谷をトロッコで走るのだが
素晴らしい景色もさることながら
冬期には、トロッコ列車は走ることが出来ないためにダム等の仕事にいかれる人たちは冬期歩道なるものを利用し、片道20kmを徒歩で約8〜9時間かけて行かれるそうだ。

河川周辺の治水に関しての仕事もあるだろうが、やはりダムでの水力発電関連の仕事もかなりの率で多いということ、そしてその電力は私の住む大阪にも送電されている。
ここにも、大いなる自然に立ち向かい、そしてその自然と共存しながら、体を張って私たちの生活を支える仕事をされている皆さんがいることを初めて知った。

心から、感謝し
そして、考えを新たにもした。

次の日はいよいよアルペンルート
扇沢から入り、黒部ダム、黒部平、大観峰、そして標高2450mの室堂
そこから美女平、称名滝を経由して立山に抜けるルートである。(もちろん、フルに乗物を利用しています。)

見るもの、聞くもの、感じるもの全てに感動した。

いや〜、自然ってすげぇ!!!!!
そして、人間もすげぇ!!!!!

人間が自然に挑戦すること
それは、自然を尊重することから始まってこそだと強く感じた。
自然をないがしろにしては、絶対にいけない。

そんなことを感じながら
実は、一番印象に残ったのが

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そう、「浮雲」
雄大な自然の中
それぞれがそれぞれの存在を主張している
秋を感じさせるうろこ雲
まだまだ、夏!!! 入道雲

その中に、
雨を降らす訳でもなく・・・・・・
季節を感じさせる訳でもなく・・・・

自由に漂っている、やつら。

む〜ん、ええ感じや。
ここまで、ええかげん自らの主張が激しい人生を歩んできた私にとって
この「浮雲」の立ち位置がとても、とても・・・・・

50歳を超えて

引っ張る訳でもなく
引っ張られる訳でもなく

説教する訳でもなく
説教される訳でもなく

愚痴をこぼす訳でもなく
愚痴をこぼされる訳でもなく

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

かといって、それなりに主張はしていたりする。

何か、そんな人生をこれからは生きてみたくなった訳です。

出来るかどうかは、別にして、(笑)

いや〜、実に「浮雲」はいい!!




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「自分であることが大切。」 [日常]


「自分であることが、自分が何をしたのかよりも大切である。」

常に私自身が意識して生きていた信念である。
言い換えれば、自分であること、自分自身に「誇り」を持つことである。


先日、侍ハードラーとして400MHで世界を相手に戦った為末 大選手が引退した。

「練習が想像しているものの半分しかできなくなり、そもそもスタートラインに万全の状態に立てなくなってきた事。アキレス腱や膝の痛みがひどく、全く走れないような期間が定期的にある事」
が理由だそうである。

決して、今まで成し得てきたことを汚さぬようにといった逃げの引退ではなく
ようするに、ベストを尽くす準備ができなくなったことで、長年積み重ねてきたアスリートとしての「誇り」、そして「為末 大」に対しての「けじめ」なのだろうと私は思う訳です。


プライドや格好つけといった、他からの評価によってなりたっている、虚栄や見栄によるものではなく
「誇り」たるものは、自らが作り上げた「信念」であり、それが自分自身なのです。

だから、その評価は自らが決める。
これは、すごく当然のことであります。

三浦和のような生き方、中田ヒデのような生き方。
どちらも、「自分である。」為にチョイスし生きている訳で、だから存在感は半端無いのです。

イチロー選手もイチローとしての「誇り」を維持出来なくなた時、「引退」という言葉が頭をよぎるのでしょうか。

いや〜、それにしても
久しぶりにすがすがしい男の引き際を見せていただき、感動しております。
本当に、為末選手「お疲れ様でした。」


まあ、そんなスポーツ選手とは比べものにはなりませんが・・・・
私自身、やはり信念通り、様々な現場において「芳村幸司」であることが大事であると考えています。

「まだまだ、若いやん。」とか

「もう、ええ歳やから。」とか

何か、20才前後の時に大人と子供の間で他人の評価で振り回されていた時代のように
人や場面によって、正反対のことを言われる時代となっているのですが

やはり、「前へ進め!!!」より「俺の後に続け!!」が私なのです。
後方で指揮をとるリーダーシップは、多分いや全体「無理」

まあ、それが自分が考える「芳村幸司」なわけでありますから。
そうでいられなくなった時、そして いるための準備が出来なくなった時が引き際かと・・・・

そう、考えている今日この頃なのであります。


といった、偉そうなことを書いておりますが、

20代に思い浮かべていた50代の私は、もっと大人だったような気がするのです。
60代になっても、また同じ事をおもうのでしょうか?


あの頃に思い浮かべていた、今の自分には「中々、なれません。」(笑)
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「無駄」だからいいんですよ。 [日常]

[中之島図書館を廃止へ 橋下市長と松井知事]
だそうです。

松井知事「例えばあそこで事業をしたいという公募事業者は、ものすごい数がいるはずだ。すごいスポットになる」
橋下市長「あんなところに図書館を置く必要はない」
だそうです。

彼らに言わせれば、無駄なことなのでしょう。
私には、彼らの価値観たるものがいまいち理解できないのです。

大阪文化の顔的な建造物であることは間違い有りません。
彼らは、「だから有効利用を図るんだ。」
と主張するのかもしれませんが、

中之島図書館には、箱だけではなく、その中で培われてきた大阪人の生き様や歴史といった多くの人達の思い出や歴史が詰まっています。

そう、図書館としてです。

その大阪に根付き、大阪人の象徴でもある図書館から図書を無くし
商業施設として生まれ変わっても何の意味も残さないとのでは無いのかと・・・・・


法隆寺や平等院等々の歴史的建造物を無駄だからと言って、有効利用を公募するのでしょうか?

話は違うかもしれませんが、体が大きく力もある人がラグビーをやってるとして、それだけの体があるのにラグビーなんて何故やるんだ、その体をもっと他のことに利用した方が効率的だよ。私達は、その体は否定していないでしょ。
てなことでしょう。


わかっちゃいない、
「無駄」だからいいんですよ。


世の中から無駄を無くせば、まったくもっておもしろくも何ともなくるのです。
野球やサッカーなんてものも、興味の無い人間からした無駄の骨頂
芸能なんて、なんの意味もなさない
ましてやコレクターなんて・・・・・・・・

でもね、無駄なものが、おもしろいのです。
そして、おもしろいから人間はがんばるのですよ。

だから、文化=無駄 

「文化なんてものは、行政が主導し作るものでは無い。」
と発言している、元大阪府知事さん(少々、語句が違うかもしれませんが似たようなことです。)

確かにそうかもしれませんが

行政が文化を壊滅させる権利はまったくもって無いと思うんですよね。
民間から作り上げたものが「文化」ならば、廃止ありきではなく、多くの人の意見を聞き、
方向性を決めることが絶対だと私は思う訳で・・・・・・。

そして、選挙とかでは無く。
多数がそう言っているからでは無く。
ある意味、マイノリティな部分も生きるためには大事なことなんだと言うことを理解していただけませんかね。

でも、彼らに言わせれば
私達が一生懸命やっている
「まつり」も無駄になるのでしょうかね?

私は、その「無駄」がおもしろくて、やっているのですが。(笑)
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「無理」しましょう。 [日常]

「芳村、無理すんな。」
「自然体で、自然体で。」
「お前、めっちゃM体質やな。」
「何処まで、自分を追い込むねん。」

ここ45年間ほど、よく言われてきた言葉で有る。

まあ、これはとんでもない誤解で
自分は非常にずぼら体質なものであるから、一定追い込みをかけないと動こうとしないのである。
「明日でいいことは、今日やらない。」これが、主義でもある。
しかし、追い込みがかかると
超ストイックになるために、周りからはそういったイメージで見られるのかもしれない。

まあ、理由はともかくとして

ようするに、「無理をしている。」
そんな風に移るらしい・・・・・・・・・・・・。



「無理すんな。」

でも、無理をするということが「生きる」ということなのでは無いのかと
私は思う訳で
無理の無い人生なんて、なんの意味があるのだろうか?
とも考えるわけなのです。
(無理にも、色々意味がありますが。)

また「無理」をしていない人間なんて、多分、存在しない。


「もう、無理。」そういって逃げ出したくなるほど追い詰められることは誰にでもある。
しかし、そこで逃げ出さず、何とか耐えることが大事であり、
すれば、新たなステージへとたどり着けると考えている訳です。

そこまでたいそうな事でなくても、例えば、体の調子が悪いなんてことも人間ならよくあることで、それでも人間は、休まずに動いていることも多々ある。

ただ、「無理」にも限界があることを自分なりに理解をすることが合わせて重要なことである。
(でなきゃ、つぶれてしまいますから。)
ここを知ることが、逆に大人になることなのかもしれないと、少しばかり寂しくもなる。

そういや、最近。
酒量を無理しすぎることも無くなってきたか。(←勘違いです。(笑))

しかし、最近の人達は・・・(また、こういった言い方をしてしまった。(笑))
「無理」をせず、「限界」だと言い過ぎる。

何かと「ルール」、「規則」といったものに守られ。
(もちろん、一般的なルールや規則を破れと言っているわけではありませんが。)
それをはみ出るような出来事があれば、人権を叫ぶ。

それでは、自分のキャパをやぶることは出来ないし
挑戦するといった気力も沸いてこない

だから、本当の意味での「失敗」もできやしないのではと強く感じる。


自分が自分であるために「無理」を重ねる。
人間は誰しも、そう簡単に「限界」なんてもんはこないと・・・・

と、書き殴ってみたが
やはり、所詮は自分の考え方を肯定したいだけなのかと思う。
でも、自分の考える少し上を目指して無理しないと、考えたことも出来ないのは誰もがわかっちゃいると思うのですが・・・・・・・・。
現状に満足するなということですか。

まあ、どっちにしても「しんどい人生」ですは・・・・・・


でも「しんどい人生」の方が大好きです・。


あっ、やっぱりMや!!!(笑)
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お山の大将が裸の王様になった状態。 [日常]

「自らを省みて直くんば千万人と雖も吾行かん」
吉田松陰がよく使った孟子の言葉。

本当に、そんな気持ちである。
いやいや、そう思い込もうとしているのかもしれない。

真剣に線いや、面で考え
何とか、多くの人達の夢の実現に多少なりとも貢献していきたい。
ここ10年、動いてきた。

互いに真剣に考え、そして交わす議論なら議論もしよう。
結果、自分の考えや想いと違う方向となっても、それはそれで納得も出来よう。

しかし、現場も知らず。
いや、知ろうともせず。
自分のキャパが全てだと勘違いし、自分の世界だけで物事を判断する。
そして、目の前の事柄に責任の無き発言や滑稽な発言を繰り返す。

訳の分からない権力ちゅうもんが存在している、私には理解不能の団体がバックボーンなのだから
仕方ないのかもしれないが。

お山の大将が裸の王様になった状態。


雇用関係でもあるのなら、それも我慢もしよう。
それどころか、何にも無いのよ。


「そこまで言うなら、お前がやってみろ!!」
との言葉を飲み込み。
このブログでも、内容をぼやかしつつ・・・・

それでも、やっぱり。

多くの現場の声を聞き
多くの人と触れあう

すれば
  ・
  ・
  ・
  ・
少しでも可能性があるのなら・・・・・・・と
また、お江戸へと向かう自分がいる。

「千万人と雖も」くらいの迫力があるのなら燃えもするのだが・・・・・



そらお江戸帰りは、荒れてるわな
大阪でおいでの皆さん、いつもいつも酒乱状態での帰阪、ご迷惑をおかけしております。

追伸:トップをきどるなら、挨拶くらい自分の言葉でしていただきたいものである。


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「威厳」がある人間が「受容」してくれたとき。 [日常]

受容すること「肯定したり否定したりせずに評価を加えずに、 ただそのまま受け止めること。 」


最近、親子関係で「友達的」な感じの親子を多く見かけます。
「姉妹みたいですね。」等と言われて喜んでいる様もよく見かけるが、私に言わせれば人間なんて年相応が一番なのよって感じであるが、それぞれの価値観を否定するつもりは毛頭無い。

趣味があう。
気軽に話しが出来る。

母親的には、それはそれでいいのだが
父親は「怖く無ければならない。」と思うのです。
暴力的に怖いと言うことでは無く、ようするに「威厳」の問題なのです。

私の小さな頃は、父親だけ夕飯のおかずが一品多かった。
とくに骨付きの鶏の唐揚げ(チューリップ)などは、その内の一本を貰えるだけでとてもとてもうれしかったりして、「お父さんだけ、ずるい。」なんてことにはならなかった。

怒られるようなことをしでかした時も、
「お父さんには、言わんといて。」と母親に涙ながらに願ったりもした。
父親と母親の存在すべきステージが明確であったとも言える。

そして「威厳」があるからこそ、子の最大の危機に父親としてとてつもない「愛」を表現することができ道を踏み外さずに子を導くことができるのであると思う。
我が子絶対博愛主義、モンスターペアレントなんてことは、あり得ない訳である。

「威厳」がある人間が「受容」してくれたとき。
この時に私は、本当の「愛」を感じ「信頼」が生まれる。

19才の時
本当に人には言うことの出来ない我が人生最大の事件を起こした。
私は父親に殴りあげられるだろうと覚悟していたのだが
私自身がいかに反省し、傷つき、後悔しているかを「受容」してくれ、共に解決に向かって走り回ってくれた。
年頃になった私は家にも帰らず、父親のこともうっとしく感じていたのだが・・・・・。

その父親が亡くなって10年。

私自身、この教え通り「威厳」と「受容」を考え3人の子供達に接してきた。

しかし、「受容」これが難しい。
へたすりゃ「甘やかし」になってしまう。
こうなると子はつけあがる。
後は、我が子絶対博愛主義、モンスターペアレントへと一直線。

逆に「受容」出来なければ。
いつもでも「うっとしい」親で信頼関係なんてできもしない。

まあ、それでももがいて来た訳で、
そして、来春には、その子育ても上がりである。

3人共、いろいろ有ったが
とにもかくにも、真っ直ぐには育ってくれた。(それが一番である。)
まあ良しと致しましょうか。

今度は、子離れをしようと努力している。


しかし、未だに・・・・・・・・・・口を出したくなる、色々気になる。
「肯定したり否定したりせずに評価を加えずに、 ただそのまま受け止めること。 」

出来てないか。(笑)

いやいや、こんな父親に、まずもって「威厳」があるのだろうか。(爆)

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