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福祉住環境の世界に身を置く者として「感動」するのであります。

数日前に新聞広告で「ベッドの横に設置できるトイレ」と名をうったTOTOの新しい商品が提案されていた。今度のHCRに出展されるそうである。

「排泄の自立が人間最大の尊厳」という観点に基づき、要介護者の精神的負担の軽減を実現させること、介護者・要介護者双方の肉体的負担を軽減し、介護の質を向上させること、転倒リスクを減らすことなどを目的として開発されたらしい。

私はTOTOのまわしものではないのだが、商品自体には今後改良も必要なこともでてくるとは思うのだが、この開発目的が素晴らしい。
そもそも、持論ではあるが
人間が生きていくために絶対に必要なものの内「だべることは陽・だすことは陰」であると思う訳であります。
食事の介護は、年齢に関わらず体調の悪いとき、ケガをしたとき等でも受け入れることは出来るのですが、排泄に関しては、なかなか難しい。
それは介護する側もそうだと思うのです。

必要であるとわかっていながらでも、従来の家の間取りは、トイレは「どこかに空いたスペースに」との考えで、階段下にあったり、スペースも最小限であったりするわけで
ダイニングキッチンや」浴室とは、扱いが全く違ってきました。

「汚い」・「はずかしい」・「臭い」

この三つが「陰」へとおしやったのです。

しかし、「陰」であるが結えに
この部分が自立出来なくなった時のQOL低下は、おしてしるべし。

ここに、昔から着眼して事業展開をしてきたTOTOという会社
おかげで、世界で一番のトイレ環境が日本には出来上がった。

便器一つにしても、追随してきているメーカーはあるのだが
コンセプトが、「洗わなくてもいい」・「施工性がいい」・「安価」等々でこれでは、言い換えれば昔のトイレの考え方を払拭することには繋がらない。
ようするに、建築よりの考えなのである。

確かに、ビジネスで考えれば建築や健康な方よりの価値観での開発もとは思うのだが

それよりも、人間としての考えで事業を展開している。
そして、望まれるものより「ひとつ上」を目指そうとする

そんな、ところに私は福祉住環境の世界に身を置く者として「感動」するのであります。

様々なご意見、あろうかと思いますが。

あくまでも「持論」ですので、ご容赦お願い致します。



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「あなた」へ。。。。

28年前の桜が丁度、満開になったころあなたを、授かりました。

学生のころから、絶対に女の子が生まれたら「未来」と書いて「みく」と読む名をつけようと心に決めていたのですが、生まれた我が子を見ると何故か迷い。。。。

それでも、出生届を出す寸前に、どうしても「未来」にしたく独断で変えた時のことを昨日のように覚えているのです。
私が存在しないであろう未来に生きることになるあなたが、いつまでも幸せであるようにとの願い。
まあ、この頃から今の子離れできない自分がいたんですが(笑)

生まれてから間もなく、お母さんが長男を身ごもり切迫早産の危険性が高まり、入退院を繰り返し
その間、あなたをおぶって、仕事をしたんですよ。
多分、覚えていないと思うけど。
ピッコロのリュックを背負って、二人で宝塚ファミリーランドにも行きましたよ。
夜泣きもひどく、だっこして座ると泣き出すので、夜通し立ちながら過ごしたこともありました。

成長していくにつれて、周りからは「しっかりもの」なんて言われて、高校の卒業式は答辞もよんたけど
本当は、人一倍の心配性で、でも負けず嫌いで、実は弱いところも一杯あって
父は、わかっていましたよ。

体も、もう一つ強くなく
それが、今でも一番の心配ごとです。

一番の思い出は・・・・・
何か、いっぱい有りすぎて・・・・・

厳しく、怒りっぽい、取っつきにくい父だったと思いますが
お酒も飲まないのに、晩酌の時につきあってくれたり
一緒に出かけることを嫌がることも無く
私にとっては、最高の娘でした。

明日、あなたは嫁いでいきます。

心から「幸せになって欲しい。」そう願うのです。

もう私が幸せにしてやることは、出来なくなるのです。
願うことしか出来なくなるのです。

いろいろな事が、これから一杯あると思います。
今度は、二人で幸せになると決めたのですから、その気持ちをいつまでも持ち続けて欲しいのです。

私は、夫婦というものは、親が子に対しての愛のように、互いに、全てを許し合い、認め合い、包み込むことは出来ないものだと思います。
違った数十年の人生を歩んできているのですから

その二人の何かがシンクロして「二人で人生を歩む」ことを決めたのですから。
だから、そのことを成し遂げる「覚悟」をし
そして、互いに「努力」することが大事だと思うんです。

頑張れ!!

最後に我が家族のテーマソング「手と手を」から

「平穏な毎日の中にも、時々面白い事があるさ
 こぼれ落ちた笑顔を集めて、それを幸せと呼ぼう
 ありふれた暮らしの中にも、たまには悲しい事が起るさ
 こぼれ落ちた涙を数えて、それも幸せと呼ぼう
 寂しさが込上げて やけに切なくなって
 うまく笑えないなら
 すぐに会いに行くよ 全部輔放り出して 君の元へ」

どうしても、どうしても 笑えなくなったら、戻ってきてもええねんで。

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「いちゃりばちょーでー」

今年も、あいつが怒涛の如く現れ、そして嵐のように私の前から去って行った。
17回目のことだ…
来年には、あいつ、高校を卒業する歳になる。
そろそろ「もうちょっと、大人になれよ!」何て思ったりするのだが…

こいつが、一向に大人にならず
ますます、熱さを高め、想いを深め、友情なんて青ぽいものを強くする。
そうか、こいつは青春の真っ只中にいるのだ!
たちの悪いことに、そこに関わる全てを引き込む力を持っている。(笑)

青春と言えば
友と飲み交わす酒

そう、漏れなくついてくる

新しい出会いで飲む酒…
再会を祝して飲む酒…
喜びや、悲しみを分かち合う酒…

そんな中で
いつもの仲間と飲む酒がここには、ある。

住むところは、遠く離れてはいるが
40年前に兄弟の契りを交わした仲間、いや兄弟である。

今年は、本当に沢山の兄弟と酒を飲み交わすことができた。
余裕無く、走り回っている時も
兄弟の顔を見ると何故か、安らぐのである。

何の打算も無い。
いや、何の意味もないのかもしれない。

だから、この時間がとても、とても大事なのである。

「いちゃりばちょーでー」

今年もあいつは、新しい兄弟を私につくり。
そして、多くの兄弟との素晴らしい時間をもたらしてくれた。

多少の疲労感と共に。(笑)

豊中まつりよありがとう。
コザの皆様、本当にありがとうございます。









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安心した状況では、本来の安心は生まれない

今年も「豊中まつり」が終了いたしました。
市民主体のまつりへとリニューアルされてから17年目、本当に多くの人に支えられ、愛されている市民フェスであると、またもや再認識さされました。

世代を超えて、来場されている皆さん、ボランティアとして関わっていただいている皆さん、そして行政、出店者、出演者・・・・・
毎年、そこには大きな笑顔があり

その笑顔をみると、自らも充実感が湧き出してくる
この笑顔が増え続けると、豊中のまちって素敵なまちになると思える

そして、この笑顔を守らなければとの強い決意のようなものも・・・・・

17年もやってると、何でも知っていると思われがちなのだけど

でも実は結構、一杯いっぱいな訳で
でも実は結構、不安を抱えている訳で

それは、みんな一緒だったりして

でも、これが大事だと思うんですよね
私は、安心した状況では、本来の安心は生まれないと自負しているのです。
常に課題を持つということは、不安で不安であれば、一杯いっぱいの努力をするのです。

そら多少のミスや思い違いは、いつだってあるのですよ。
でも大きなベクトルを共有しているもの同士にとって、それはカバーしあうことが大事で
私の役割はそのベクトルを共有してもらうということだと考えています。

それが、チーム「豊中まつり」

さてさて、今年もチーム「豊中まつり」として、動けたのでしょうか?

今年も、次年度へむけての調整がはじまるのです。。。。。。

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改めて思う「福祉住環境」

ながらくブログをアップしていなかった。
といううか、ブログの存在自体が私の頭から消去されていたといっても過言では無かったのです。

実は、この4月から「ワクワク」・「ドキドキ」するような事業が複数進みつつあるのです。
53才引退説など、どこ吹く風かとばかりに。(笑)

しかも・・・・・・


豊中まつりも間近に迫って参りまして・・・・・・


まあ、どんな事業なのかは、おいおいブログでアップして行くとしまして

実は数日前に、狭心症と思われる症状でぶっ倒れた訳なのです。
いや、本当に死ぬかなと思ってしまいまして

そんなこんなで、「自分にとっての一義的なものとは何か?」
なんてことを考えたりしてしまったのです。
となると、やっぱり福祉住環境と言われる世界かなと・・・・

本当に、ここ10年ほどの間に
「福祉住環境」といった言葉があちらこちらで聞かれるようになって
本当に大昔から関わってきた私にとっては、とてもとても違和感があるのです。

そもそも「福祉」とは
公的配慮によって社会の成員が等しく受けることのできる安定した生活環境。(デジタル大辞泉)
であり、生活上なんらかの支援や介助を必要とする人、経済的困窮者・ホームレスなどに対し、生活の質を維持・向上させるためのサービスを社会的に提供すること、あるいはそのための制度や設備を整備することが「社会福祉」たる意味であるとされている。

しかし「福祉住環境」で表現される「福祉」とは
「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味すると強く思う訳で、あらゆる全ての人の生き方の質を向上させる、まさしくQOLをの向上に他ならないと、私は確信しているのです。

あちらこちらで。QOLやらICFやらと叫ばれてはおりますが

現場では、なんのなんの
まだまだ・・・・・・・・・

特に、一番の疑問は
疾病や事故で何らかの障害を持ちました
そのマイナス部分を補うことで、なんとか以前の生活を取り戻すといった、ICIDH的な考えが福祉住環境の世界には多く残っているのです。
障害の部分だけを見た福祉住環境ではマイナス10がマイナス3にはなれてもプラスには絶対なれないわけで、そこにはこれからの人生の中で「しあわせ」や「ゆたかさ」を求めることが出来ない状況をつくりだしているに他ならないと思うのです。

すなわち「福祉住環境」では無いのです。

もちろんマイナス3で「しあわせ」や「ゆたかさ」を感じる方も沢山いるでしょう。
しかし、福祉住環境のプロフェッショナルとして関わる以上は、そこで価値観をシンクロさせるのは「逃げ」だと思うんですよね。


確かにその部分は0にはなれずとも、他の部分でプラス要素を向上させることで全体でみれば障害を持つ前の時よりも「しあわせ」や「ゆたかさ」が向上する。これこそが「福祉住環境」の持つ最大の意味だのです。そこに、空間とか、インテリアとか、光とか、カラーとか、素材とか・・・・建築士としての力量が発揮できるのです。(もちろん、それだけでも無いのですが)

それって、「ICF」の考え方。
福祉の世界では当たり前。

そう言ってのける方もおられるかもしれませんが

理論先行でその理論は現場では、まだまだ咀嚼されていないことを理解すると共に
人間の本質的なものが、プラスでなくマイナスに目をむけてしまい、そこに「大変やなぁ〜」という感情がはいる。そうなれば、なかなかプラス要素の話がしづらい事も十二分に理解しつつ考えていかねばならないと、強く思うのです。



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所詮、私の原動力は・・・

いや〜本当に久しぶりにブログアップ。
Facebookなるものを始めてから、どうしても発信がそちらよりになってしまっているのです。
http://www.facebook.com/kouji.yoshimura1

まあ、そんなことはさておき。
この4月から豊中市の提案公募型の協働事業制度で「豊中市市民活動情報サロン」の運営を私の関連している二つのNPO法人と岡町をベースにコミュニティカフェを展開されている一つの団体との協議体で受託しました。

「まあ、懲りもせず。」

と思われる方も、大勢いらっしゃるかと

でも、やっぱり。
今まで、自分が語り続けてきたことを「うそ」に終わらせたくないといいますか・・・・・

自分達の子供達に胸はって誇れる「我がまち」を継承したいといいますか・・・・・

それには「協働」に対するこだわりを捨てることの出来ない、自分がいるのです。



そら、当然のごとく。

協働でありながら、委託といった形しかない現状で・・・・・
しかも、情報サロンは庁舎外にあるのですが(阪急宝塚線豊中駅 北改札口すぐ)市役所の出張所的取り扱いなので規制も厳しく・・・・・
公平と平等の区別が出来ない現状でもあり・・・・・

市民側もガバナンス的な考えはまだまだ根付いていなく・・・
公共の丸投げ気質も残りつつ・・・・

苦労は覚悟の上!!!

そんなことで、ついつい。
事前打合せでも「熱」が入りすぎてしまうのです。

ぼちぼち「豊中まつり」も本格的になってくるし
コミュニティカフェ「CoCoKara」もばたばたと
国交省ケア連携の事業も最終局面

ましてや

4月からは、ちょいとばかり大きめの事業を考えたりしていまして・・・・

そんなおりに
「あなたは、何がやりたいの?」と妻からの素朴な質問。

「お前や家族を幸せにしたいんや。」と私・・・・

そう、そこなのですよ。
所詮、私の原動力は。



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「教育」のなかでは「罰」という考えがあってはならない

何なんだろうか?
ここしばらく、テレビやネットのニュースを見たり聞いたりする度に、イライラ感が募る。

まあ、AKBの問題はまったくの論外として(全く、バカバカしい。)

何度も書いているが桜宮高校の問題、女子柔道の問題・・・・・・・

テレビでは、いつもの如く
専門家と呼ばれる人達がコメンテーターとして出演
「記者会見の時に質問の仕方が悪いっていって、私があなた達を殴ったら・・・。」
「バレーボールのバレーって意味も知らないでバレーをやっていることが問題なんです。」
「金メダル至上主義が・・・・。」
「スポーツは勝つことだけが目的では無く・・・・。」

そんなことは、どうでもいいとは言いませんが
(いやいや、どうでもいいものもあります。)


私は、根本は
「出来なかった時に、なんらかの罰を与える。」のが教育では無く 「何故出来なかったかを一緒に考える。」のが教育である。

ここから考え直さなければ、今の問題は解決しないと思うのです。


スポーツの世界だけでなく、日本の場合は、罰則主義が教育の中にあったことは、まぎれもない事実であるとおもうんですよね。
日本一を目指して取り組む学生スポーツと日本一の学校に入りたくて取り組む勉強。
これも教育だと思うんです。

それを我が人生の道と決めて歩もうとしている訳ですから。
自分が評価を勝ち得ようとしたステージが違うだけでしょう。

しかし、問題なのは

教育そのものの中に、罰的考え方が残っていること
結局それが、体罰や暴力を誘発し、そしてそれを容認してしまうのかと思うのです。
そして、世の中では勝ち得た人間を褒め称えることが多い。(あくまでも、多いです。)

ようするに「教育」のなかでは「罰」という考えがあってはならない

これがプロフェッショナルとの大きな差なんだと思います。

赤点をとったから、課題を追加する。
試験が出来なかったから、留年する。
試合でミスをしたから、罰走としてグランドを走る。
練習に遅刻したから、チーム全員が腕立てをする。

これらのことは、規律をまもることの大事さ、二度目の失敗を防ぐ為の方法、一定の能力の獲得といった全てが自分の為であるということを本人も指導者も理解し、納得していない状態でおこなわれることに問題があると思うのです。

でも私は、その中で50年以上も生きてきたんです。

だから、少なくとも私はの自信が無い、それは多分、自分の歩んできた道を否定することが怖いからなんだと思います。
そして、それを肯定するために今行われていることを容認してしまう自分がいるのです。
(まったくもって、だめな奴ですは・・・・・・)
実は、それも大きな原因なんでしょうね。
本当に、考えさせられる、いやいや考えねばならないと強く感じています。

でも
桜宮高校の件と女子柔道の件
これと、内柴の件を一緒に論じることだけは絶対に許せないと思うんです。




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絶対にあってはいけないことは

難しい問題であるが故に。。。。。。

しかし、私個人として橋下市長の方向性には強い疑問を感じざるを得ない。
「教育とは。」と公で公人が言葉を発するのであれば、一義的に配慮すべき、考えるべきことを置き去りにしては絶対にいけないと思う。
今回の場合は、ご遺族、在校生、受験生に配慮し、寄りそった対応がなされるようにまずは、考えることが当然ではないのだろうか?

「ここは越えてはならないという、一線を教えるのが教育だ!!」

と大きな声で叫んでいるようであるが、果たしてそうなのだろうか?
全て、正義感と言う仮面をかぶって政局の具にしてしまう、その手法に私達、大阪の人間もぼちぼちNOと言うべきではないだろうか?


ご遺族のことを考えた時、胸が痛み、苦しい。
決して、当事者の方の気持ちがわかると言えば嘘になる、でもそこをわかる努力をしたいと思う。
その上で、何がベターなのかを考える。
息子が高校生のころ、よく似た境遇を経験しているものとしては
看板を掛け替えただけの決定に、ベストです等と胸はって言うなどとは、あきれはててしまう。

もちろん体罰を容認しているわけでは決して無い、言わば今回のことは体罰ではなく暴力であるとの考えには納得もできる。
徹底的にそういったことを排除せねばといった考えにも同意できる。
そのためには厳しい処分は当然であるとも思う。

しかし、絶対にあってはいけないことは
子供達に責任を負わせることではないだろうか?
子供達の夢をもぎとることではないだろうか?



これも、私は一種の暴力であるように思えてならない。


「じゃあ、どうすればいいんですか。代替案を出して下さい。」
と言われるかもしれない。


でも、それを一義的に配慮すべき、考えるべきことを踏まえた上で権力をふりかざすのではなく、
真剣に考えていくことが、まずは第一歩であるのではないだろうか?
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「気をゆるす」ことと「気を使う」こと

しかし・・・・・・
ちょっとばかり、愚痴らせていただきます。

何故故に
「気をゆるす」ことと「気を使う」ことの違いがわからない輩が多いのだ。。。。。。

私には、親友と呼べる人間は一人だけいる。
彼には、気をゆるしている。
しかし、他の友達以上に気も使う。
そして・・・・・・打算は皆無。

気を使うから、真剣に相手のことを考える。
気をゆるしているから、本音で話ができる。

これが当たり前であろうと思うのです。
そして、双方にその思いがあれば、信頼関係が構築され、こころ穏やかな環境が作れるわけである。

ようするに
これが「思いやり」

大切な存在であるが故に気を使うことになんの違和感も覚えない。
そして気をゆるしているから、共生できる。
妻にも、家族にも同じである。

それが親友やから気を使いたくない、家族にまで気を使いたくない。
なんてことを平気で言う
だから離婚も多いし、本当の親友も出来ない。

年末に久しぶりに里帰りをしてきた子供が

「折角帰ってきたんだから、家のこと手伝うよ。」
「いやいや、折角やからゆっくりしとき。」

どっちが後先でなく、この会話が大事なのである。

「おもてなしの心」も同じだと思う訳です。

やってもらったから、やる。

絶対にそうでは無いと言い切る!!

来ていただいてありがとう。

こっちである!!!

同じ時間を共有するのであれば、こころの底から
相手のことを考えて接することが大事なのである。
ようするに、気使いの問題である。

それが、自分の都合や価値観だけで。。。
まさしく「あしらう」といった場面に出くわす。(いや、出くわした。)

組織であれ、個人であれ。
互いの事をおもいやる気持ちが無いと、信頼関係はうまれない。

目の前の客人の水割り一杯作れない輩に「おもてなしの心」は感じない。
会場までのアクセスを気にも出来ない輩に「おもいやり」は感じない。
しかも、それが「仕事」でありながら。

まあ、すごく間接的に書いているので
多分、これを万が一読んだとしても、私が誰のことを考えているのかは当の本人はわかるよしもないでしょうが。(笑)

最後に、関係ないかもしれませんが。
特別な理由無く、子供を空港のANAラウンジなんかに連れて入っている親、グリーンに座らせている親、カウンターの鮨屋につれてきている親。
こういった、人にも私は「思いやり」や「おもてなしの心」は感じないんですがね

言い過ぎですか。。。。。。。(爆)
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おもてなしの極意

昨日、9月に堺で開店した後輩の料理屋に寄ってきた。
何かと忙しくて寄ることが出来なかったのだが、堺で久しぶりに呑むことがあり、夜の遅くではあったが開いているかなと突然、ぶらっと寄った訳である。

何の後輩かと言うと
別に出身校が一緒だとか、前の会社が一緒だとかでは無く
飲みにでた時には、帰りに一軒だけ一人で何処かの店に寄るのが好きで、そのおりによく行っていたキタ新地の料理屋の板前さんなのである。(この頃は、雇われの板さんでしたが)

いつも、終わりがけなので他のお客さんがはけた後に何かと話し込む習慣ができ
いつのまにか、10歳ほど年齢が上なので「先輩」なぞと呼ばれるようになってしまった訳である。

みょ〜な縁で
結婚の立会人までさしていただいた。

それからは、ほとんど
私が飲みたいときに、無理矢理でも誘うといった付き合い
誠、彼や奥方は嫌な顔一つせずに(本当のところは解りませんが(笑))付き合ってくれました。

ということは、私は迷惑だけかけてきたようなもんなのだが・・・・・

そんな彼から、自分の店を出したいので相談に乗ってくれと
ここは、一肌脱がなくては!

いろいろ話を聞いて内装スケッチを書き、料理を出す器のチョイスを手伝った。

そして彼が
「店の名前をつけてくれませんか。」

・・
・・・・・・

「おいおい、私でいいのか?」
 刹那!
「女房とも、先輩に名前つけてもらおうと決めてました。」と・・・・・
 
和の料理「真心(しんしん)」
素直に彼たちの事を考えた時に出てきた言葉である。


まあ、オープン直下は何かと忙しいだろうから、しばらくしてからのぞこうかと花だけを贈った。
そして、昨日。

11時過ぎに、突然のぞいたのだが、これがまだ満杯状態である。

まあ挨拶だけでもと考え入ると

「いらっしゃい、お待ちしてました。」
とカウンターのネタケースの前に一席に通してもらった
「タイミングよかった、一席空いてたんやね。」
といううと、
「先輩、何おしゃってるんですか。」

「いつも、飲んでる時に。「伊集院さんの言葉で
「鮨屋はどんな時でも一席があけておくものだ。店を育ててくれた客がいるだろう。」
ってのが、料理屋のおもてなしの極意やね。」って教えてくれてたじゃありませんか。」



いや〜、私をそこに通したら
本来の客が座るところがなくなるって。(笑)


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