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「恩」とは原因を知る心 [日常]

人生などというものは、「不条理」が有って当たり前、それらをどう許容しつつ生きていけるかが大人なるものであると考えてきた。
だから、人の評価を得るために生きることでは無く、自分の道理にそって自らの目的や夢近づいたかという指標を大事にし、生きてきた。

しかし、そういつつも人間は一人では何もなし得ないことも、我が師に教えられ、理解してきた。

故に、自分の夢や目標に近づくためにも、多くの人からの協力が必要であること、また協力してもらったということも十分に意識することを大事にしてきた。

その大事にしてきたものが、一字であらわすと「恩」という言葉に集約される。
我が師から、浄土真宗の教えで「恩」とは原因を知る心であると教えられた。

現在こうして生きていけるのは、何々があったから、それに巡り合わせてもらったのは、誰々がいたから・・・・・・・と続いていくわけで、52年間も生きているととても沢山の「恩」を持ち合わせていることになる。
現在、普通と考えられていることも「原因を知る心」をひもとけば、いろいろな人に支えられていたことがわかる。

当たり前におくる日常生活。
当たり前に入ってくる仕事。
当たり前に存在する人間関係。

しかし、人間は目先のことに目を奪われがちで今まで支えてくれた「恩」ある人をどうしても軽んじてしまいがちである。
私も例外では無く、特に若い(どのくらいを若いといううのかは分かりませんが。)頃には、「恩」ある人(恩師)の言葉や存在を逆にうざく感じてしまうことさえあった。
最近でさえ、自分が今、取り組んでいること以外のことであれば「じゃまくさい」などと とんでもない気持ちになることさえあった。(一般的には、親がこの対象になったりするんですが・・・)



そして、足が遠のく。

この原点に「震災」というものを通して、改めて戻ることが出来た。
「原因を知る心」

これは、とても大事な心であると、今になって改めて思う。
そして、再度「恩」をうけた人には、出来る限りのことをと考える。

しかし、ほとんどの場合は、それらの人は「恩返し」を拒む、
「自分では無く、後輩達にその気持ちを伝えてやってくれ」と・・・・・・・

また、「恩」に気づいた時にその人はいない・・・・・・・

でも人間だから、感謝の気持ちを表されれば、必ずうれしいはずだと私は思う。(自分の価値観がシンクロしたということであるから。)

だから、目見張り、耳を澄ませ、嗅覚をとぎすます。

とは言っても
「酒が呑みたい時には、とことんつきあいます。」
「いざ、鎌倉。の時は、何があってもかけつけます。」

実は、それだけのことしかやってないんですけど。


我が恩師の「いざ、鎌倉。」
今回は、見えなかった、聞こえなかった、臭わなかった。

先生
「お前に酒で負けるとは、思わんかったな。」といって、大笑いしていただけたこと
忘れません。

本当に、お世話になりました。
このご恩は、後輩達にきっと返して参ります。




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