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「教育」のなかでは「罰」という考えがあってはならない

何なんだろうか?
ここしばらく、テレビやネットのニュースを見たり聞いたりする度に、イライラ感が募る。

まあ、AKBの問題はまったくの論外として(全く、バカバカしい。)

何度も書いているが桜宮高校の問題、女子柔道の問題・・・・・・・

テレビでは、いつもの如く
専門家と呼ばれる人達がコメンテーターとして出演
「記者会見の時に質問の仕方が悪いっていって、私があなた達を殴ったら・・・。」
「バレーボールのバレーって意味も知らないでバレーをやっていることが問題なんです。」
「金メダル至上主義が・・・・。」
「スポーツは勝つことだけが目的では無く・・・・。」

そんなことは、どうでもいいとは言いませんが
(いやいや、どうでもいいものもあります。)


私は、根本は
「出来なかった時に、なんらかの罰を与える。」のが教育では無く 「何故出来なかったかを一緒に考える。」のが教育である。

ここから考え直さなければ、今の問題は解決しないと思うのです。


スポーツの世界だけでなく、日本の場合は、罰則主義が教育の中にあったことは、まぎれもない事実であるとおもうんですよね。
日本一を目指して取り組む学生スポーツと日本一の学校に入りたくて取り組む勉強。
これも教育だと思うんです。

それを我が人生の道と決めて歩もうとしている訳ですから。
自分が評価を勝ち得ようとしたステージが違うだけでしょう。

しかし、問題なのは

教育そのものの中に、罰的考え方が残っていること
結局それが、体罰や暴力を誘発し、そしてそれを容認してしまうのかと思うのです。
そして、世の中では勝ち得た人間を褒め称えることが多い。(あくまでも、多いです。)

ようするに「教育」のなかでは「罰」という考えがあってはならない

これがプロフェッショナルとの大きな差なんだと思います。

赤点をとったから、課題を追加する。
試験が出来なかったから、留年する。
試合でミスをしたから、罰走としてグランドを走る。
練習に遅刻したから、チーム全員が腕立てをする。

これらのことは、規律をまもることの大事さ、二度目の失敗を防ぐ為の方法、一定の能力の獲得といった全てが自分の為であるということを本人も指導者も理解し、納得していない状態でおこなわれることに問題があると思うのです。

でも私は、その中で50年以上も生きてきたんです。

だから、少なくとも私はの自信が無い、それは多分、自分の歩んできた道を否定することが怖いからなんだと思います。
そして、それを肯定するために今行われていることを容認してしまう自分がいるのです。
(まったくもって、だめな奴ですは・・・・・・)
実は、それも大きな原因なんでしょうね。
本当に、考えさせられる、いやいや考えねばならないと強く感じています。

でも
桜宮高校の件と女子柔道の件
これと、内柴の件を一緒に論じることだけは絶対に許せないと思うんです。




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